■新海誠のUberEats
開け放たれた窓から初夏の生温い風が入り込み、星柄の遮光カーテンがふわりと波打つ。
空腹に耐えかね集中力が切れてしまった『僕』は、デスクチェアの背もたれに寄りかかり両腕を大きく伸ばした。
そして己がスケッチした指輪のデザイン画を改めて確認する。どこかで見たことのあるようなありきたりで面白みのないデザイン。
だが先人の模倣は悪いことではない。基本ができなければ応用もできないように、過去の作品を知らなければ新しい作品を作ることなど決してできない。斬新な作品が作りたければ、過去の人たちが何故その斬新なデザインを今まで作らなかったのかを知る必要があるのだ。
ふーっと一つ息をつき、僕はゆっくりと天仰いだ。脳裏に浮かんでいるのは、幾多の星々が煌めく壮大な銀河の光景。
人は何故、夜空の星に惹かれるのだろう? 宇宙という未知の闇に輝く無数の星たち。僕はその星々にジュエリーの石を重ねていた。星の数ほどのジュエリーが存在しようと、その輝きに同じものなどないはず。
目を瞑り広大な宇宙に思いを寄せると何かいいアイデアが浮かんできそうな気もするが、それよりまずはこの空っぽのお腹を満たさなければならない。僕は上腹部に手を当てパソコンメニューバーの時計に目をやった。
「そろそろ時間かな……?」
――――――――――
夕暮れの空を見上げた『私』は、ヘルメットに納まらないこみかみから伸びた髪、いわゆる触覚ヘアの片方を前に引っ張りながら、この奇妙な既視感は何であっただろうかと考えを巡らせていた。
いや、これは既視感とは違う。絶対にどこかで見聞きしているのだ。
私の持つスマートフォンの画面には天野亜琉瓦をいう人物の名前が表示されている。普通に読めばアマノアルカワラという名前だが、私はそれがアマノアルタイルと読むのを何故か知っていた。亜琉までは読めなくもないが、瓦をタイルと読ませるのは中々の強引さだ。
路肩に停めていたクリーム色のスクーターに乗り込んだ私は、持っているスマートフォンをホルダーにセットしエンジンを始動させた。
アルタイル……。まごうことなきキラキラネーム。
だが私はこの名前を一体どこで知ったのだろう?
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ジュエリーデザイナーとは一見すると華やかな仕事のように感じるが、実際は地味な作業の連続だ。ピンセットで摘まんだ裸の石を眺めながら、何もデザインが思い浮かばずに無駄に時間を過ごすことも多い。
僕は煮詰まってしまっていた頭を切り替えるように深呼吸し、リモコンを使って隣のリビングルームのテレビをつけた。画面はぼんやりとしか見えないが、夕方のニュース番組で天気予報を報じているようだ。「今夜はよく晴れます。関東地方では天の川が観測できるでしょう」という男性お天気キャスターの声が聞こえてくる。
視線を戻した僕は、先程描いていた凡庸な指輪のデザインを何となく眺めた。21ある一等星から名前を取ったその指輪のデザインを。
「そういえば今日は七夕か……」
1年にたった一度だけ、7月7日の夜に出会うことができる。そんなロマンチックな織姫と彦星の恋の物語。
――――――――――
アルタイル、アルタイル、アルタイル……。
まじないのように頭の中でその言葉を繰り返しながら、私はスクーターを軽快に運転している。
ホルダーに設置したスマートフォンに表示されているのは、その天野亜琉瓦という人物の自宅に向かうルート。私は今、駅前の中華料理屋で受け取った醤油ラーメンと餃子を届けるために、薄暮の闇に沈みかけた国道を南に向かって走らせていた。
確実に知っている名前なのに、それが誰なのかは全く思い出せない。学生時代のクラスメイトではないし、昔バイトしていたファストフード店で出会った人でもないはず。親戚でもないし、当然幼馴染でもない。そんなもやもやする思いを抱えたまま、私の運転するクリーム色のスクーターは信号を右折し脇道へと進んでいく。
アルタイル、アルタイル、アルタイル……。夜空に浮かぶ、キラキラネーム。
へんてこりんな歌詞のようなものを頭の中で唱えている内に、どうやら目的地と思しきマンションの前に辿り着いたようだ。
「……ここかな」
――――――――――
お腹が空いた。そろそろフードデリバリーで頼んでいた料理が届く時間なのだが。僕が待ちわびるようにスマートフォンを手に取ると、それと同時にピンポーンというチャイムの音が部屋の中に響いた。
来たっ!
もたれかかっていた椅子から勢いをつけて立ち上がった僕は、隣のリビングを抜けいそいそと玄関へと向かう。そして玄関扉を開けると、そこには何やら難しい表情でヘルメットから出た触覚ヘアを前に引っ張っている若い女性がいた。
「あ、ご苦労様です」
こちらからそう言うと、触覚の女性は花が咲いたかのようにパァッと笑顔になり印象的な大きな目がキラキラと輝きだした。彼女は配達員で間違いないのだろうが、情緒がただならぬ様子。
この笑顔にどんな意味があるというのだろうか?
――――――――――
その部屋の玄関扉が開き家主が出てきた次の瞬間、私の頭の中で致命的に絡まっていた糸が綺麗に解きほぐれるような体感を得た。
「これはいわゆる、アハ体験ね!」
したり顔で私が言うと、目の前にいる眉の主張が若干強めの若い男はいぶかしげに顔色を曇らせた。
「ごめんなさい、今のはこっちの話……。それより君、国目高校のサッカー部に所属してた天野くんでしょ。ミッドフィルダーで、確か背番号は7番」
彼のその力強い眉を見て私は思い出したのだ。彼は数年前の全国高校サッカーに出場していた選手の1人。二回戦で負けてしまっていたが、そのプレースタイルは今でもよく覚えている。
「な、何でそんなこと知ってるんですか!?」
動揺を見せる強眉の男性。それと同時に部屋の奥から「正解です!」という恐らくテレビの音声が僅かに聞こえてきた。
やはり間違ってなかったようだ。自分の記憶力を誇らしく思うと同時に、相手が若干引いてしまっているのもやんわりと伝わってくる。
「何ていうか、すごく面白い名前だったから記憶に残ってて……」
そう言いながら、顧客の名前が表示されているスマートフォンの画面を見せる。男性は成程といった表情で何度か頷いた。
「……サッカー、お好きなんですか?」
「まあ、多少ね。ただキラキ……、今時な名前なのに、古臭いというか泥臭いプレイしてたのが凄く印象に残ってたの。チームの中でも一人だけ坊主頭で気合入ってたでしょ? あっ、ごめんなさい! これお届けの商品です」
私は恥ずかしさを誤魔化すように早口でそう言い、右手に持っていたラーメンと餃子の入った袋を差し出した。強眉の男性は小さく会釈をして、その袋を受け取る。
――――――――――
僕の心臓が大きく脈打った。
感情が高まる。それは自分を知ってくれている人がいたということだけではない。白くて細い彼女の指を見た瞬間、僕は何か運命めいたものを感じたのだ。
「僕のことなんて覚えてくれていてありがとうございます。けど実は、僕は僕で知ってることがありますよ」
そう言うと、触覚の女性は虚を突かれたように目を丸くした。「知ってること?」
「はい。それはあなたのつけているその指輪の名前です」
僕の目にはしっかりと映っていた。袋を受けとる時に小さく輝きを放っていた彼女の指輪。
「えっ、これ? 確か半年くらい前に買ったやつだけど名前は覚えてないな。何だっけ?」
「ヒントは、夏の夜空にひと際美しく輝く純白の一等星」
僕の頭の中に浮かんでいるのは、天の川を背景に眩く光る夏の大三角。彼女の頭の中にいも同じものが思い浮かんでいるかはわからないが、女性は触覚ヘアを強く引っ張ると大きな瞳が星のように瞬いた。
「……ベガだ!」
「そう。正解です」
リビングのテレビから流れているクイズ番組の司会者の声を真似て言うと、触覚の女性は鼻の頭をくしゃっとさせ愛嬌のある笑みを浮かべた。
その笑顔に釣られて表情が崩れた僕は、自分が駆け出しのジュエリーデザイナーであることと、そのベガという指輪は自分が始めて商品化したものであることを伝えた。
「へー、これは凄い偶然。しかしあの泥んこの坊主頭がこんな繊細なリングを作るなんて、この世は奇跡で溢れてるねぇ」
女性はどこか揶揄するように笑い「またいい作品作ってくれる?」と、こちらに視線を向けた。
「勿論。それが本職だから。お姉さんもまたウチに届けに来てくれますか?」
「ふっふっふっ、私もそれが仕事だから。ご注文いただければ、何度でも……」
僕は彼女が触覚ヘアを引っ張るのを見届け、静かに扉を閉めた。そして脇に追いやられていたラーメンと餃子の入った袋を持ち上げ、彼女に言い忘れた「ありがとう」という言葉を小声で呟いた。
果たしてこの出会いは偶然なのか?
――――――――――
玄関扉を閉めた後、自分が仕事で配達に来ていたことを思い出した私は、今更だったが「ありがとうございました」と言い扉に向かって頭を下げた。
果たしてこの出会いは運命なのか?
一息ついた私は、マンションの廊下から身を乗り出し、すっかり暗くなった夜空を見上げた。この辺りは郊外の住宅街。さすがに天の川は見えないが、夏の大三角は視認することができた。
私は右手を掲げ、指輪の石を大三角の右上の星に重ねる。廊下の照明が反射した小さな石は、七色の光を放ち綺羅星の如く輝いた。
これは七夕の夜に起きた、たった一粒の小さな出会い……。
夏の夜空を舞台に繰り広げられる、彦星アルタイルと織姫ベガの数奇な恋愛譚。
この出会いが偶然なのか運命なのかは、誰もわからない。だって『僕』の、『私』の物語はまだ始まったばかりなのだから。