■加藤実秋のUberEats

2022年02月25日

「あんたさぁ。ヤクルトのおばさんじゃないんだから、その格好はなくない?」

 大きな配達用のバッグを背負い自転車を押し歩くヒロコは、その言葉が自分に向けて言われているということに全く気づいていなかった。多くの人が行き交う猥雑なこの町では、他人の言葉など取るに足らない喧騒の一つに過ぎないのだ。

「ちょいちょい、お前に言ってんだよウーバーイーツ! 聞こえてんだろ」

 そこまで言われてヒロコはようやく自分が話しかけられたのだと思い至り、その歩みを止め硬い表情のまま言葉の主の方に振り返った。

「何でしょう、私に御用ですか?」

 ここは川崎駅東口前にある銀柳街商店街。ヒロコに話しかけてきたのは、ピンクのラインが入った黒いジャージを上下に着た小柄な金髪の女だった。アイラインが殊更に主張していて、少しでも目を細めるとパンダのように目が真っ黒になってしまう。恐らく彼女はアヴリル・ラヴィーンを強く意識しているのだろう。

「ごよう? 用はねぇけど、お前のこと毎日見かけるから、声かけてやったんだよ」

「そうですか。私もお姉さんのこと、よくお見かけしますよ」

 実はヒロコも、そのアヴリル女のことはしっかりと認識していた。彼女は夜になるとこの辺りに現れる、キャッチの仕事をしている人物だ。キャッチの人間はガラが悪い人たちが多い印象があるので、なるべく目を合わせないようにしていたのだが、川崎駅前で配達をしていれば銀柳街は何度も行き来しなければならない場所。こちらのことを覚えられてしまうのも必然かもしれない。

「お前さぁ、ウーバーの配達員なのにちゃんと自転車押し歩きしてるから偉いと思ってたんだよ」

 そう言ってにこりと笑い、パンダ目になるアヴリル女。ガラの悪いと思っていた人種に、まさかマナーを褒められるとは思わなかったので、ヒロコは少し返答に困ってしまい表情を曇らせる。

 ここ銀柳街商店街は10時から24時まで歩行者天国になっている。自転車は押し歩くのがルールだが、まあ守らない輩も少なくない。しかしながら、川崎とはそういう輩が比較的多い町なのだ。

「けどなぁ、マナーは良くてもお前は格好が駄目だ。何だそのダサい服? キャディーさんのコスプレでもしてんのか?」

「ええ、キャディーさんですか......」

 アヴリル女の言う通り、確かにヒロコは大きなつばの帽子を目深に被り肌が極力隠れるようなレインウェアを着て配達に勤しんでいる。ただそれは肌が弱いので日焼けをしたくないためだ。お洒落とは言えないだろうが、それでも全身ジャージで仕事をしている人間に指摘される謂れはない。

「ちっとは肌の一つも出した方が、客もチップ弾んで貰えんだろ? この間、テレビの特集でやってたぜ。ウーバー女子だっけ? 何かあざとい格好して配達してんだよな、あいつら」

 アヴリル女が鬱陶しそうにそう言うと、タイミングよく先程言ったような薄着のウーバー女子がタイヤの小さいミニベロ自転車に乗って、颯爽と目の前を通り過ぎていった。ヒロコとアヴリル女の視線が、そのウーバー女子の姿に注がれる。

「私もあんな感じの格好をすればいいんですかね?」

「いや、あれは駄目だ。ホコ天をあんなスピードで走ったら、いつか痛い目......」

 アヴリル女がそう言いかけた時、ウーバー女子が走っていった先から年寄りの悲鳴が上がった。言ってる傍から事故かと思ったがまさにその通りだったようで、商店街の出口にある薬局の前で、杖を持った老女が仰向けになり倒れてしまっていた。接触したようだが、自転車に乗ったウーバー女子は振り返りもせずにそのまま走り去っていく。

「マジかよ、あの女っ!!」

 そう言って駆けだすアヴリル女。ヒロコも自転車を押してその後を追った。

「だ、大丈夫ですか? おばあちゃん」

 ヒロコが手を差し出すと、老女は申し訳なさそうに薄く笑いそして上半身を起こした。

「お店から出てきたら物凄いスピードで自転車が横切っていって、それで......」

 若干混乱しながらも、その時の状況を説明してくれる老女。件のウーバー女子はすでにどこかに行ってしまっていたが、老女曰く、軽く接触して尻もちをついただけなので怪我などは無いから大丈夫とのことだった。

「怪我してないつっても、許されることじゃねぇだろ! おいダサ女、今すぐあのクソ女を追いかけろ!」

 鼻息荒く憤るアヴリル女。だが肝心のウーバー女子の姿は見える範囲では確認できないし、どこに行ったかもわからない。

「そういうのは警察に任せた方が良いのではないでしょうか?」

 ヒロコがそう提案するも、アヴリル女はあり得ないといった顔で黒い目を大きく見開いた。

「お前馬鹿だろ! 警察なんて呼んで何になるんだよ? ここは川崎だよ、カ、ワ、サ、キ! 川崎では警察見たら110番しろって言われるくらい、糞の役にも立たねぇんだよ!」

「えっ、警察見たら110番!?」

「そうだよ、知らねぇのか? さてはお前、川崎生まれじゃねぇな。どうせ田舎もんだろ? ダサい格好してるはずだよ」

 呆れたように肩をすくめるアヴリル女。確かにヒロコは川崎出身ではなかった。生まれと育ちは横浜市中区だったのだが、それを言うと新たな火種を生みかねないので口にするのは控えておくことにし、他のことに話を反らした。

「けど、あれですよ。わざわざ追いかけなくても、さっきの女の人ならすぐに戻ってくると思います」

「はぁ? すぐ戻る?」

「はい」

 ヒロコは頷く。あの人が乗っていたのはタイヤの小さいミニベロ。あれに乗ってる配達員なら、恐らく短距離の配達くらいしか受けないだろう。10分足らずで戻ってくるに違いない。

「何でそれがわかる? お前はアストラゼネカか?」

 眉根を寄せたアヴリル女は、そのまま小首を傾げた。

「ア、アストラゼネカ?」

「知らないのか? お前、本当に馬鹿なんだな。預言者の名前だよ。アストラゼネカの大予言っつたら結構有名だぞ」

 どこか得意げに鼻を鳴らすアヴリル女。

 ヒロコは成程と感心しつつ何か考えるように視線を上げ、アーケードの屋根を見つめた。製薬会社の予言とは非常に興味深い。後でスマホで検索してみることにしよう。

 そしてヒロコとアヴリル女は、座り込んでいる老女に肩を貸す。ゆっくりと立ち上がった老女は丁寧に礼を言い、真っすぐな足取りで駅の方角に去っていった。

「まあ、あのウーバー女子にはむかついたけど、人助けしたから気分が良いな」

「そうですね」

 満足気に笑うパンダ目のアヴリル女を見て、ヒロコも少しだけ表情が緩んだ。

 普段から交通マナーやモラルのようなものは守っているつもりだが、いざこういった出来事が目の前で起きたら今までの自分なら見て見ぬふりをしていただろう。素早く行動に移すアヴリル女のおかげで、自分も人から感謝されるようなことができた。それがヒロコには、とても誇らしく感じることができた。

「さあ、じゃあそろそろ仕事に戻るか」

 アヴリル女が小さい体を大きく天に伸ばすようにして体をほぐしていると、商店街の入り口から進入してきた小さなタイヤの自転車に乗った女がこちらに向かって走ってきた。あれは先程のミニベロに乗ったウーバー女子だ。

「あっ!! さっきのクソ女!! てめー、止まりやがれ!!」

 怒声を上げるも、ウーバー女子は我関せずといった顔で、そのまま市役所通り方向に走っていく。

「ダサ女! そのチャリ、ちょっと貸せ!」

 有無を言わぬ間にハンドルを奪われるヒロコ。そしてアヴリル女は駆けながら自転車に飛び乗り、多くの人が行き交う商店街に雄たけびを上げながら突っ込んでいった。

「お姉さん、駄目ですよ! 銀柳街は自転車乗り入れ禁止です!」

 ヒロコはそう叫んだが、興奮したアヴリル女はそれで止まるはずもなかった。

 これはどうしたものか......?

 困り過ぎてこめかみが痛くなってきたが、そうやって困っていても仕方がない。先程学んだように、こういう時は素早く行動に起こさなければならないのだ。己に対して頷いたヒロコは、後を追うようにその場から走り出した。

 銀柳街の距離は全長250メートル。久しぶりの全力疾走で息も絶え絶えで、膝もこちらの言うことを聞いてくれない。大きな配達用のバッグを背負っているために走りづらいのだが、そんなことにすらも気づかずにヒロコは人ごみの中を走り続ける。

 駄目だ。足が限界だ。

 顎が上がった状態でよれよれと走るヒロコ。すると突然、アーケード内に女性の金切り声が大きく響いた。

 遂にアヴリル女がウーバー女子を捕獲したか?

 顎を下げ、顔を表面に向けるヒロコ。視界の先にあるのは、銀柳街の出口付近の車止め。そしてその陰に隠れるようにしていたウーバー女子に向かって、アヴリル女が今まさに飛び蹴りを喰らわせようとしていた。アヴリル女さん、それは傷害事件です。

 キャットファイトを繰り広げる2人の周りには、たくさんの聴衆が集まってくる。大変なことになってしまったと頭を抱えるヒロコ。そして騒ぎを聞きつけたのか、聴衆に交じり1人の警察官が駅の方から走ってくるのが見えた。

「ま、まずい。警察だ!」

 狼狽したヒロコは震える手でスマートフォンを掴み、急いで110番を押した。

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